大阪・日本橋ヒスリー

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 「日本橋」の橋

 現在、電気街と橋とは直接関係は無いが、その云われとなったので調べてみた。なお”にっぽんばし”と読みます。写真が現在の橋の様子。右が北、左が電気街の方向で、電気街とは500mほど離れている。
 橋の向こう側がミナミの繁華街。川の左側が道頓堀、右側が宗右衛門町の歓楽街。

橋の北端に上のような碑板があるが、文字が磨り減って近くで見ても判読しずらい。写真を撮って拡大すると、次のような碑文が刻まれている。
 「         日本橋        
  日本橋は 道頓堀川が元和元年(1615)成安道頓らの手により 開削され
  た当初から 整備されていたと考えられる
  江戸時代 日本橋は紀州街道の道筋として 紀州藩や岸和田藩の参勤交代道
  などにも利用され 大阪三郷の重要な十二橋の公儀橋(幕府が直接管理する橋)
  の一つであった 橋詰は 京や琴平参りの船着き場として 多くの人々が集
  まり賑わった とくに南詰めには 高札場が設けられ 水陸交通 情報発信の要衝であった
  近代になって 明治十年(1877)頃に鉄橋化され 市内でも重要な路線で
  あった 明治三十四年に一度架け替えられた後 明治四十五年には 市電を
  通す橋として鋼橋になり 道路の整備に合わせ幅員十二間(21.8メートル)
  に広げられた
  この橋も昭和四十四年には地下鉄建設のために架け替えられ 高欄や親柱が
  ?(不明)くなり 現在に至っている
  橋梁諸元
     橋 長  28.80メートル
     幅 員  28.00メートル
                     平成五年三月  大阪市             」

 明治まで

 日本橋電気街のど真ん中を南北に通っている道は”堺筋”、その下を走っている地下鉄は”堺筋線”と呼ばれる。その呼び名のとおり、この道は江戸時代には国際貿易都市であった堺と浪速を結ぶ幹線道路だった(当時はまだ御堂筋などなかった)。さらに、岸和田藩、紀州和歌山へ通じており、紀州の殿様が参上してくる道でもあったので”紀州街道”と呼ばれていた。その紀州街道が道頓堀川と交わる場所にある橋が”日本橋(にっぽんばし)”。

 現在の電気街のある日本橋筋周辺は、当時゛長町゛と呼ばれていた。 紀州街道沿いの長町は宿屋町として賑わっていた。表通りは旅人宿だが、一歩裏に回ると”裏長屋”と称される長屋がひしめく。"長町裏"といえば、江戸時代末期から明治二十年代にかけては、当時を代表する貧しいスラム街。動乱の幕末頃から、諸国から多数の生活困窮者がこの町に流れ込み住みついた。しだいに無宿者の足溜り場となり、定職も無くその日暮らしの貧しい人たちの住む町になっていった。大阪一の密集地、劣悪な住環境の貧民窟でした。 裏の住人は家に出入りするには、必ず家主の家の一部を通る仕組みになっており、家に入るたびにそのつど日割家賃を支払う。この日払い家賃のシステムは、現在でも愛燐地区のアパートや簡易ホテルにのこっている。(”ドヤ”っていうやつ)

 明治の長町大掃除

 明治になり新しい維新体制になっても依然として貧民窟であることには変わらなかった。
 明治十五年旧長町貧民街を視察した政府報告には「日本橋以 南、長町モ亦窮民ノ集処ニシテ、高津新地ヨリ一層甚シク且ツ多シ。道路ニ棄タル廃物ヲ拾イ帰ヘルアリ。魚鳥ノ臓腑 ヲ持帰ヘリ食ウアリ。此処ニテハ業ヲ為 スモノヲ見ズ、食スルニ非ザレバ必ズ昼寝ス。是レ則チ 窃盗・掏摸・賊徒ノ巣窟タリ」と凄い事が書かれている。
  役所は、こうした貧民窟を消し去ろうと努力した。まず明治5年“日本橋筋”と改称され、“長町”の名は消える。しかし名称は変わってもスラムの現状は変わるはずがない。貧民窟という都市の恥部をぬぐい去ろうと、さまざまな努力が試みられた。特にコレラなどの伝染病対策は急がれ、あの手この手の「長町撤去」が試みられたが、頑強な抵抗にあい実現しなかった。

 そこ退け、そこ退け、天皇様のお通り

 明治三十六年三月に大阪で第五回内国勧業博覧会開催されることが決まった。開催場所の「大阪市南区天王寺今宮」は長町のすぐ隣。長町筋を通らなければ市内から勧業博覧会場へ入れない。開会式の当日は明治天皇のお馬車が通る処。”長町裏”撤去は役人にとって命を懸けた大仕事となった。博覧会場へ通ずる日本橋筋周辺の密集地帯を撤去し、住民を南方に強制的に移動させ、その跡に幅員五メートルの道路を一直線に通した。 大阪府長年の課題であった貧民窟の撤去は、このようなかたちで実現する。

 勧業博覧会に合わせて明治三十四年には梅田に国鉄大阪駅が完成。この駅から天王寺までは細いジグザグ道だった。天皇行幸のお馬車が通れるような道ではない。そこで多数の民家を「天皇がお通りになる」理由で立ち退かせ、梅田〜淀屋橋間に一直線の広い新道をつくった。これが御堂筋の始まり。「天皇は全てを動かす」

 明治・大正:その後

 明治四十五年(一九一二)五月一日、堺筋の道幅が拡張され市電堺筋線の開通する。 博覧会以後、大掃除された日本橋筋周辺はありとあらゆる古物や安い衣類などが売られる“古着屋の町”“掘り出し物の町”と変わっていった。それを目当てに貧乏学生達が集まってくる。その学生目当てに古書店が現われだし、日本橋古書店街が形成されていった。こうして戦前の日本橋は、東京の神田と並ぶ有名な古書店街であった。
 大阪一の古本屋となった天牛書店もこの地から発祥している(昭和四十年代末頃まであり、私もよく利用させてもらった)。朝から晩まで、角帽に学生服、マント姿がたむろする学生の街、青春の街・・・若さと活気に満ちた日本橋筋の古き良き時代であった(これが当時のオタクだったんだろうナァ)。
この古書店街も、昭和二十年三月の大空襲で壊滅する。

 戦争へ、そして
大阪大空襲で壊滅

 昭和に入り、日々軍靴の響き増す。町には国防色の服が増え、市街地を戦車が地響きをたてながら進む。町にはポスターも「欲しがりません勝つまでは・・・」とか、「鬼畜米英」と過激なポスターが増えていく。大阪のシンボルである通天閣も、昭和十八年二月に鉄材供出のために解体され300トンの鉄屑に。 「お国のため」「天皇平価様のため」の大儀のもと徴兵や徴用などに皆動員されていった。市民生活はいよいよ耐乏を強いられるようになった。

しかし 三年八ヶ月にわたる虚しい「天皇の戦争」は終わった。日本は戦いに破れ、米軍を主力とする連合国軍に占領される。
・昭和二十年(一九四五)三月の大阪大空襲で焼失。
・昭和二十年八月十五日終戦、「天皇の時代」は終わった。
・昭和二十年(一九四五)九月二十五日京阪神地域も占領された。大阪には、和歌山市近くの海岸に上陸した米軍先遣隊(第三三師団)が、装甲車を先頭に軍用トラックを連ねて焼け野原の日本橋筋から堺筋を北上し、法円坂にあった第八連隊にはいった。同時に吹田操車場に列車で到着した米軍部隊とともに市内各地域に進駐した。

 戦後復興

 焼け野原の街となったが、皆必死に生きようとした。売れるものは何でも売って、生きるカテにしなければならない。日本橋周辺にも衣類、家庭用品、台所用品、工具類など食料品以外の中古品が並べられ売られていた。こうした露店市が自然発生的に生まれてきた。
 中でもラジオや無線機、真空管などの中古部品を扱う店が繁盛してた。戦時中、通信・無線などに携わった復員兵が中古部品を集め組み立て、生計を立てようとした。そうして自然と電子関係に興味を持つ人達が集まってくる。
戦後、GHQが打ち出した基本方針は、『一に食糧、二に石炭、三にラジオ』だったという。有効な占領政策を実施するには的確な情報伝達が必要だった。昭和二十五年(1950年)にラジオの民間商業放送が開始され、GHQの後押しもありラジオ生産が活発になってきた。自作のラジオ向け等のパーツや工具等を扱う店がこの界隈に現れだす。こうして日本橋はラジオ部品の一代集積地として賑わうようになり、後の「電気街」への起こりである。
 ラジオ全盛期時代を迎えた。さらに昭和二十六年(1951年)LPが発売され、電気蓄音機などの音響機器にも広がっていった。まさに真の”オタク”の始まりなのだ。

 朝鮮戦争を機に日本経済は復興をはたし、国民の所得水準はしだいに向上していった。それを背景に第一次家電ブームが起こる。昭和三十年代に入り立ち直った家電メーカーは競って掃除機、洗濯機、冷蔵庫、ステレオ、テープレコーダ、テレビなどなどの新商品を発表。新製品は新しい需要を生み、需要はさらに新しい製品を生む。電気製品市場は空前の活況を呈していった。 日本橋もこうした電気製品を扱う店が増え繁盛し「電気の街」へとなっていく。上新電機、和光電気、二宮無線、中川無線、ミドリ電化、そしてマツヤデンキなどが日本橋の顔となっていった。

 電気の衰退、そして“情報家電”の街へ

 昭和50年代頃から本来の家電の需要が一巡し、家電の需要は低迷していく。 それに代わってオーディオブームや、「ファミコン」などのゲーム機が現われ、そのハード・ソフトを扱う店が店舗展開してくる(ソフマップなど)。
また企業などの事務処理を合理化、機械化するために、コンピュータが急速に普及してきた。この波に乗って電機各社はパソコン分野にも進出していく。NEC日本電気の開発したパソコン[PC9800]シリースは圧倒的なシェアを獲得する(私もこれに触ったのがきっかけだった)。Windowsの人気もあり、電気街は次第に「パソコンの街」へと変貌していく。新たなオタクの出現である。
  平成に入り、大手電気店のパソコン販売だけでなく、パソコンの部品や周辺機器などのパーツ、メディアなどを扱う小型店が増殖していく。表通りだけでなく裏通り、雑居ビルに入り込んでいった。 ファッミリーの電気街から、若者の街、オタク族の街へ変わりつつあった。

  同時に電気店の衰退がある。2001年(平成13年)、千日前にビックカメラ(なんば店)が、同じ年に梅田(大阪駅前)にヨドバシカメラ(ヨドバシ梅田)が進出してきた。とどめは2006年(平成18年)3月、日本橋のすぐ西側にヤマダ電機の都市型大型店舗『LABI1 なんば』がオープン。そのため従来から店は大津波に襲われる。2003年(平成15年)9月にマツヤデンキが、続いて2005年(平成17年)1月にはニノミヤが相次いで経営破綻。中川無線電機(中川ムセン)も日本橋からは撤退。上新電機は10店舗くらいあったのが、電気製品を扱うのは1店だけ。あとは電気製品以外のホビー商品メインの店舗に切り替えてしまった。かつての主役であった家電量販店は激減し、現在残っているのは上新電機だけという現状に。 かっては日本橋に来なければ手に入らなかった品物も、郊外の家電量販店で簡単に手に入る。今や、電気製品を求めて日本橋に来る必要もなくなった。いや、来ても電気製品の店を探すのが大変だが・・・。

 今:雑多な街へ

 ここ数年の間に家電量販店の多くが閉店し、中小電気店も相次いで店を閉めた。その退店跡にはフィギュアやガレージキット・鉄道模型などのホビー関連の商品を扱う専門店やコスプレ衣装・同人誌等の販売店が進出してきた。それでも埋まらない空き地にはコンビニ、マンションが建つ。 いまや表通りは何の街なのか分らない街へ。

 そんな中、目立つといえばパソコンパーツショップや携帯電話の販売店、アダルトDVD販売店やメイド喫茶。 そして「オタロード」の誕生である。堺筋の本通りから南海電車側の裏通り(正しくは「日本橋筋西通商店街」)にマニア・オタク向けのパーツショップ、同人誌、コスプレ、フィギュアやおもちゃなどの店が進出してきた。ネット上で自然発生的に「(でんでんタウンの)オタク通り」と称されるようになり、現在では「オタロード」の名称が定着。そしてメイド喫茶の繁殖。かって違和感のあったメイド姿のカワイコチャンが路上で客引き・チラシ配布する姿も、今ではすっかり周囲にとけ込み日常風景となってきた。
 本筋の「日本橋筋商店街」はこうした現状を吹き飛ばそうと、近年春分の日に「日本橋ストリートフェスタ」を開催している。日本橋ど真ん中を通る堺筋を約700メートルにわたって数時間歩行者天国として開放し、同時にパレードなどのイベントを行っている(秋葉原の「ホコ天」の焼き直し)。しかしこれも目立つのはコスプレやメイド姿・・・

「東の秋葉原・西の日本橋」と呼ばれるが、だんだんとオジサンとは縁の無い街へ変わっていくようです。”萌えろ!、オヤジ”

(2012/12/11 記)